文教地区としての梅田東

文教地区としての梅田東

教育と学校

<寺子屋・私塾から小学校へ> 

 平安時代には教育機関として「大学寮」があり、原則として貴族や郡司の子が対象で、一部の人々にしか門戸が開かれていませんでした。身分や貧富に関わりなく学ぶことのできる教育を提唱した弘法大師(空海)は、天皇や諸侯、仏教諸宗の高僧などに呼びかけ、天長5年(828)に「綜芸種智院」を開設しました。庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であったとされます。

 

 江戸時代の教育は、諸藩や民間によって任意に設けられ、大きく分けると寺子屋と私塾がありました。寺子屋は庶民や武士、僧侶などが開設し、読み、書き、そろばんを教えていました。私塾は寺子屋より高度な教育を目指し、新しい学問を教えていました。大阪では蘭学者・緒方洪庵の適塾が知られています。その他、郷学、藩校、学問所などが開設されていました。

 

<大阪の小学校の誕生>

 明治初期には、大阪にも寺子屋がたくさんあり、明治5年(1872)8月、教育立国を目指してすべての子に教育を受けさせるために「学制」が敷かれ、近代学校創成の機運が高まりました。小学校もでき、修身、読書、習字、算術、唱歌、体操などが当時の授業の科目でした。

 

明治、大正、昭和と時代の推移とともに

地域に根ざした「梅田東小学校」

<仮校舎で児童数は91名>

 明治8年(1875)5月15日に、文部省学制発布の趣旨によって大阪府西成郡北野村自香寺庫裡(北区神山町)を仮校舎として開校しました。校名は大阪府西成郡北野小学校で、半年毎進級の8級4か年小学校でした。児童数91名でのスタートで、学制が発布された明治5年(1872)に遅れること3年を経ており、それまで児童は隣接した村の曽根崎小学校に通学していました。発足当時は梅林や菜種畑の広がる田園地帯で、自然の情趣に富んだ地でした。明治7年(1874)に初めて大阪・神戸間に鉄道が敷かれて大阪駅が開設され、梅田東に大阪の玄関口としての鎚音が力強く響いていたことでしょう。 明治15年(1882)9月1日、隣村の川崎村と連合して北野太融寺町に敷地を買収し、新校舎を建設移転し、校名を大阪府西成郡野崎尋常小学校と改称しました。児童数は335名になっていました。

 

<学区制によって市立小学校に>

 明治30年(1897)4月1日、隣村の豊崎・国分両村の一部が加わり、学区制による市立小学校となりました。以来、年々地域が発展していたために児童数が急増して分教場を設置することになりました。当時は8か年の併置小学校で、児童数は1236名に増えていました。明治39年(1906)9月5日には本校舎の保存期限と児童数の増加状態から、学区内に校地を茶屋町に移転し木造2階建ての校舎を改築しました。

 

 明治41年(1908)4月1日、従来の4年制を6年制に改め、尋常科6年、高等科2年としました。8月には校地西側に雨天体操場が建設されています。翌年の8月、24学級(尋常14、高等10)、児童数1489名を数え、校舎も木造2階建て3棟に増設しました。

 大正9年(1920)4月1日、小学校の今後の増設を考え、設立順に校名を統一して済美の文字を冠して改名し、大阪市済美第一尋常高等小学校と改称しました。

  大正11年(1922)4月1日には高等科を済美第五小学校に移して、校名を大阪市済美第一尋常小学校と校名を改め、児童数は1603名になっていました。

 

 大正13年(1924)6月1日、学区町名地番更生の結果、済美学区49か町の市立小学校となり、佐藤、牛丸、大深、小深、芝田、茶屋、浜崎、鶴野の8か町は本校区に入りました。

 

<昭和16年に「梅田東」と校名>

 昭和2年(1927)4月1日に、学区の教育事業ならびに保有財産はすべて市の直轄となりました。校舎改築後、すでに20余年を経過し保存期限の上からも改築の必要がありました。まず第1期工事として最も朽廃していた雨天体操場跡に最新式の3階建てを、1階を講堂兼体操場に、2・3階は普通教室計12室、屋上に運動場を建設しました。翌年の3月14日、耐震耐火鉄骨鉄筋3階建て校舎新築落成しました。このときの学級数は23学級、児童数は1112名でした。

 

 昭和9年(1934)9月21日、室戸台風が襲来し、大暴風雨のために、北棟校舎が傾くという被害がありました。その後、町名の改称や分合等の変遷によって、昭和16年(1941)1月21日夜、校名改称委員会で慎重に協議を重ねた結果、「梅田東」の校名が生まれました。学校があった所がかつての梅田梅林の東方にあたるということで「東」の名が浮上したといわれます。翌日には大阪市へ校名改称の手続きをとりました。

 

 日華事変(日中戦争)を契機として教育改革が行われこともあり、同年4月1日には、明治以来、親しまれた小学校の名を改め、大阪市梅田東国民学校と改称しました。昭和17年(1942)、本校付設の青年学校を改組し、北野・北天満・済美との4地区を統合して梅田東青年学校を改めて併設しました。昭和18年(1943)には中学校令が制定され、師範学校についても改革が行われました。

 

<戦中と戦後の苦難の時代>

 太平洋戦争に突入した昭和16年(1941)後は、急速に戦時体制が強化されました。やがて「ほしがりません、勝つまでは」が、国民の合言葉になっていきました。昭和18年(1943)10月には多くの学徒出陣が始まりました。

 

 戦局は日を追って激しさを増し、昭和20年(1945)の卒業式は3月14日でしたが、その前夜に第1回目の大阪大空襲があったため、卒業式はなく証書も手にすることができなかったそうです。そして6月7日の大空襲爆撃で木造校舎はすべて焼失し、軍事工場として使用された鉄筋校舎と元校長室にあった金庫1個を残すのみとなりました。焼失したものは木造2階建て校舎2棟延739坪15教室と付属の建物、校具などでした。

 

 同年8月に終戦を迎え、10月18日に集団疎開が終了し、軍需工場になっていた鉄筋校舎を復旧し、鉄筋3階建校舎1棟471.9坪、12教室雨天体操場兼講堂を用いて児童200名を6学級に編成し、終戦後の児童教育の新たな出発としました。

 

<大阪市立梅田東小学校と改称して>

 昭和22年(1947)4月1日、「教育基本法・学校教育法」によって、6・3制の新学校教育制度が実施され、大阪市立梅田東小学校と改称しました。児童数は310名で、戦後すぐのため、PTAやOB有志、職員、児童で焼け跡を整理したり、仮のバラック教室を急造したりしました。

 

 昭和28年(1953)6月17日には、念願の鉄筋3階建て6教室1棟を新築落成しました。昭和30年(1955)には80周年記念式典挙行し、校歌と校旗を制定しました。

 

 その後、昭和39年(1964)10月に創立90周年記念式典挙行、昭和50年(1975)5月15日に創立100周年記念式典を挙行しました。昭和53年(1978)2月には、地番変更が行われ、北区茶屋町51番から北区茶屋町1番40号となりました。昭和56年(1981)3月にはヤンマーディーゼル株式会社と校地交換が行われています。

 

 この頃には都心部のドーナツ化現象が進み、住居人口が減少して就学人口も減少していました。平成元年(1989)3月31日に閉校となって曽根崎小学校と統合(大阪市立大阪北小学校)し、従来の曽根崎小学校敷地を使用することになりました。梅田東小学校跡地は大阪市梅田東学習ルームとして、地域の文化・交流場、生涯学習や研修の場として活用されていましたが、大阪市が土地の売却を決定、平成23年(2011)3月に閉鎖となりました。

 

大正末期、大阪駅北側の学校はそれぞれ新天地に

大阪駅の北側はかつて文教地区だった。

大正時代の地図の梅田北ヤードの辺りには、コンテナホームや線路などは見当たらず、学校の文字が点在しています。 

 

 工業学校とは、明治40年(1907)設立の市立大阪工業学校(現:大阪市立都島工業高等学校)で、当時の大阪は東京と並ぶほど中等工業教育が盛んでした。

 

 中学校は現在の府立北野高等学校、梅花女学は、私立梅花高等女学校、高等女学校は現在の大手前高等学校、金蘭女学校は現在の金蘭会中学・高等学校のことです。

 

 大正9年(1920)頃から移転問題が発生し、大正14年(1925)頃には北野中学校を残してすべて移転しました。北野中学校も昭和7年(1932)に現在の十三地区に移転しています。

文教地区の新たな歴史を刻む大学キャンパス


 大阪市立梅田東小学校閉鎖後の跡地は、平成23年(2011)11月に入札が行われ、学校法人常翔学園によって落札されました。そして、平成29年(2017)4月より、同法人の大阪工業大学梅田キャンパスが開校しました。地上21階、地下2階、高さ125mの超高層の都市型タワーキャンパスで、「OIT (Osaka Institute of Technology)梅田タワー」と名付けら、工学デザイン分野の新しい学部を置かれています。

 このほか、梅田東地区には、関西大学をはじめ関西学院大学、宝塚大学など、地域に根ざした梅田キャンパスが点在し、未来を担う多くの若者たちが学んでいます。