梅田東のあゆみⅠ

低湿地帯の「埋田」から、菜の花畑、そして、活気あふれるまちに再生

大坂の歴史と北区の誕生

 大阪(古くは大坂)は縄文時代(紀元前7千年頃)から人が住み始め、弥生時代には農耕をする集落が形成されて物流ルートもできていきました。やがて古墳時代(3世紀末~6世紀末頃)になると大陸との交易が行われ、交易の玄関口として大陸からの渡来、使節が往来する重要な役割を担うようになりました。飛鳥・奈良時代になると、遣隋使の出発点であった難波津は、国際的港湾都市として発展し、そして鎌倉、室町時代と時流にのって大阪の基盤が築かれます。

 

 その後、織田信長の意志を継いだ豊臣秀吉の築城とともに城下町造りが進み、堀川が開かれて街区が整えられました。大坂冬の陣と夏の陣で焦土と化しましたが、徳川幕府は経済中心地として秀吉の町割を踏襲しつつ商都大阪の復興に努めて城下を拡大しました。それによって「天下の台所」として全国に名を馳せるようになりました。大阪のまちは本町通りを境に北組と南組と命名され、のちに北組から大川右岸が天満組(現在の北区の基盤)として分離し、大坂三郷と呼ばれる町組が完成します。各地から米や特産物が集まって商人のまちとして栄え、今も脈々と受け継がれている町人文化もこの頃に開花しています。

 

 江戸初期の北区は、蔵屋敷が建ち並んでいた中之島と堂島川右岸以外はのどかな田園地帯でした。やがて北区一帯で堂島川とその分流の曽根崎川(蜆川)の改修が行われ、整備された河岸は堂島新地と曾根崎新地となり、新地には茶屋や湯屋、芝居小屋などが登場しています。江戸末期に幕藩体制も終焉を迎え、明治元年(1868)に新政府によって「大坂」に代わって「大阪」が正式な表記となりました。

 

 明治維新後、大坂三郷は北、東、南、西の四大組に改組され、これが大阪市の元になります。明治4年(1871)の廃藩置県などの行政改革を経て、四大組は明治12年(1979)から区と呼ばれ、北区の呼称が生まれます。明治22年(1889)に大阪市は4区制となりました。

「下原」「埋田」だった梅田東

 梅田東周辺の歴史は仁徳天皇の時代にまで遡ることができます。『日本書紀』に「兎我野(とがの)」という古い地名が見られ、仁徳天皇が皇后を伴って高台から兎我野の鹿の音を愛でたと記されています。兎我野は、梅田や北野に隣接する場所で、その頃は大阪湾がすぐそこにありました。

 

 上古の大阪の歴史は埋め立ての歴史でもあります。近世には、下原(低湿地帯)に泥土を埋め立て、田畑地を拓いたことから「埋田」と呼ばれるようになり、のちに「梅田」の字が当てられました。また、この地の産土神である綱敷天神社や露天神社に縁のある梅に由来するという説もあります。

 

 市街地から離れた野原だった、茶屋町の形成が始まったのは18世紀後半からといわれます。臨海の地で早くから発達した曾根崎村に比べ、その北に位置していた梅田東は、発展の時期を迎えるのが遅れたといえます。周辺は田畑でばかりの寂しい土地、都心部の大坂三郷の人たちが行楽におとづれ草花を愛で、観月を楽しむ憩いの地であったようです。一面、菜の花畑が広がっていたということが文書にも残されています。

大阪の玄関口としての布石


 梅田東周辺が大きく発展したのは、明治7年(1874)5月に神戸と大阪を結ぶ鉄道が開通したことに始まります。それまで一面田畑で水路がいたる所に点在する風景が広がっていましたが、梅田停車場「梅田すてんしょ」(現在の大阪駅)が設置されたことで、周辺の開発が本格化して様変わりを見せ始めました。先に駅舎の建設の候補地にあがっていたのは「堂島」でした。船運の利便性も高く商業の中心地でありましたが、鉄道の敷設が住民の反対にあい、まちはずれのこの地に決まったのです。

 

 明治9年(1876)の大阪―神戸間に続き、大阪―京都間が開通して京阪神が結ばれ、天皇陛下をお迎えしての開業式も執り行われました。 その後、明治39年(1906)に阪神電気鉄道(阪神電鉄)が乗り入れ、明治43年(1910)には箕面有馬電気軌道(阪急電鉄)が開業するなど、一帯は鉄道の発達とともに飛躍的な発展を遂げることになりました。それに伴って住宅化が進み人口も増えていきました。

 

人口が増え、都市化が進む

 大正10年(1921)から大阪市の第1次都市計画が始まりました。大正14年(1925)には区編成があり、当時花形だったメリヤス工場なども多く軒を連ね活況を呈し、梅田東もどんどん人口も増えていきました。梅田から難波までの御堂筋の拡幅を含む抜本的な都市再構築で、北区内では大阪駅前での土地区画整理事業や大阪駅の現在地への移設、都島通の新設などが行われ、昭和8 年(1933)には梅田-心斎橋間に地下鉄が開通し、梅田東も交通機関の整備とともに都市化が進みました。

勝利を信じてみんなが耐えた


 やがて、大陸での戦局が拡大し、日本中が軍事色に包まれていきました。昭和16年(1941)に太平洋戦争に突入すると次第に戦局が厳しくなり、すべてが戦争へ向かう足がかりとして全国の尋常小学校を国民学校と呼ばせる国民学校令が国から出され、梅田東小学校も名称が変わっています。空襲が頻繁に続くようになり、児童の安全な所への疎開(学童疎開)も始まりました。親戚や知り合いのいる人は縁故疎開、集団疎開で大阪を離れていくことが多くなりました。

 

 昭和20 年(1945)に入ると空襲は規模と頻度を増しました。3月13日深夜から14日未明にかけての大阪大空襲では、旧北区内の4分の1が焼失する被害を受け、まちは廃墟となりました。梅田東も例外ではなく、多くのビルや民家が失われました。

戦後復興から再生へ


 戦後の昭和21年(1946)に大阪市は復興局を設置して復興都市計画に着手し、北区内でも道路の拡幅計画や戦災復興土地区画整理事業が進められました。

 

 しかし、まだまだ生活は物資の不足や流通ルートの混乱、インフレなどで再建の道は厳しいものでした。大阪駅前にのちに問題となる大規模闇市が自然発生的に登場したのも無理のないことでした。

 

 復興から高度経済成長に移行するにつれ、梅田東周辺はターミナルとなり、商業施設も次第に増え戦前のにぎわいを取り戻し、商工業の中心地として立ち直り始め、再生の道をたどっていくこととなりました。